2009年01月12日

笹川良一さんの腕時計

笹川良一さんの腕時計

笹川会長物語
たった一人でGHQに立ち向かった漢(おとこ)のサクセスストーリー

<一.私は、あなたの名誉のためにも死刑を望んでいます>

 「東条さん、貴方は万が一、助かって無期懲役になればよい、などとは思っていないでしょうね。それこそ生き恥です。どうせあなたは死刑を免れませんよ。私は、あなたの名誉のためにも死刑を望んでいます。歴史は貴方の刑死を必ずや見直すことでしょう。ついては遺言を残して下さい。その内容はね・・・」

 東京裁判の被告となった東条英機に対して、こんな事をはっきり言った男がいた。笹川良一である。

 戦争犯罪人として捕えられた高官達が、自分だけ助かりたい一心で、占領軍に迎合して、国家に罪をなすりつけたり、果ては天皇に累を及ぼしたりしては、日本の再建に重大な支障となる、と笹川は憂慮していた。

 彼は戦前、冤罪で起訴され、3年間獄中にあって、裁判を闘い抜き、ついに無罪を勝ち取った体験を持っていた。その体験をベースに、高官達に道を誤らないよう指導しようと決心し、わざわざ占領軍と一悶着を起こして、巣鴨プリズンに入り込んだのである。

 このような突飛な、しかし勇気ある行動を起こした笹川良一とは、一体どのような人物なのだろうか?

<二.笹川の翼賛選挙批判>

 笹川は、昭和17年、戦時下の衆議院議員選挙で、非推薦候補として当選した。非推薦候補とは、東条英機内閣が組織した翼賛政治体制協議会から推薦されない独自候補で、警察や憲兵から激しい選挙干渉を受けた。それでも定員466名中85名の非推薦候補が当選したことは、当時の日本の議会政治が相当に根強いものであった事実を示している。

 笹川は、昭和18年2月の衆議院予算委員会で、この推薦制を廃止すべきだと、東条首相に直言した。

 「私はこれでなかなか、こわもての方であります。こわもての私ですら、さようなひどい目にあったのだから、ほかの弱い候補者諸君は、どれほどやられておるか分からぬ(笑い声)・・・

 今、国民は結集して東条内閣を支持しておる。・・・しかるに何を苦しんで推薦、非推薦の別を設けて、陛下の赤子を敵、味方にしたのですか。」

 笹川と東条とは、対立者として相まみえたのであった。


<三.東京裁判への危機感>

 笹川は、敗戦後の昭和20年10月5日、衆議院議員全員の辞職を同僚議員に呼びかけた。新日本の建設には、軍部の消滅だけでなく、重臣、財閥、官僚の指導者の総退却が、絶対必要だと考えたのである。しかし、笹川のこの呼びかけに応じたのは、衆議院議員わずか18名に過ぎなかった。

 この直前の9月11日、東条英機元首相以下、39名を皮切りに、戦争犯罪容疑者の逮捕が始まった。笹川は、これから始まろうとする東京裁判に対して、深刻な危機感を抱いた。

 第一に、あまりにも無法な裁判は、日本国内の反米感情を強め、日本をソ連陣営に追い込んでしまう恐れがある。笹川は、将来の日本は、親米路線を歩むべきと信じ、そのためにも、この裁判が公正なものでなければならない、と考えた。

 第二に、敗戦の混乱の中で、共産党員の動きが活発化していた。GHQ(占領軍総司令部)の命令で約3千人の共産党員が釈放されると、司令部の建物の前で「万歳」を叫び、さらに人民大会を開いて、「天皇制の廃止」「天皇を戦犯として逮捕せよ」などと気勢をあげた。天皇が裁判にかけられたら、国内は動揺し、共産革命への道を開くことになるかもしれない。

 しかし捕らわれた東条以下の高官たちは、恵まれたエリートコースを歩いてきた人々で、牢獄につながれ、裁判を受けた事などない。助かりたい一心で、占領軍におもねって何を言い出すか分からない。そこで笹川は自ら被告の一員になって彼らに近づき、指導しようと決心した。

<四.遠慮なく逮捕してくださって結構です>

 しかし、笹川は戦時中に衆議院議員を務めた程度で、巣鴨プリズンに入る「資格」はない。ないなら、作り出せばよい。こうして笹川の占領軍挑発が始まった。

 笹川は地盤である大阪でさかんに演説会を開き、米国やソ連の批判を公然と続けた。米国の原爆投下、ソ連の中立条約違反と満州侵略などの戦争犯罪を列挙し、

「自分たちが国際法を犯して戦争犯罪を重ねながら、日本の戦争責任を裁こうとする権利はないはずだ!」

 演説会は次第に多くの聴衆を集め、そのうち、米国やソ連の軍人が、会場にも見られるようになった。

 「会場には、アメリカやソ連の占領軍が聞きに来ており、私の話していることを通訳し、速記にとっております。私は逃げも隠れもしません。どうぞ私を戦犯にして、遠慮なく逮捕してくださって結構です。」

 12月2日GHQは第3次の戦犯容疑者59名を発表したが、その中に笹川の名があった。笹川は生きては帰れまいと、父の墓の隣に自分の墓を建てた。母テルは赤飯を炊き、「思う存分、日本の国のためにお役に立てなぁ、あかん」と送り出してくれた。

<五.軍艦マーチに送られての巣鴨入り>

 笹川の入獄は、芝居気たっぷりのものであった。銀座の事務所前に、トラック数台を並べ、「笹川大国士歓送」と大書した幟を立てた。笹川は羽織袴の正装で、見送りの群集にマイクで惜別の挨拶をした。そしてトラックに分乗した音楽隊が演奏する軍艦マーチとともに、群集の万歳や拍手に送られて、巣鴨に向かった。

 笹川の鳴り物入りの入獄は、米軍の神経を逆なでにした。翌日、笹川は米人検事数名の前に呼び出された。

 検事の一人は、いきなり笹川を平手打ちし、「お前は敗戦国民であることを知っているのか!」と怒鳴った。そしてなぜ占領軍を馬鹿にしたような言動をとったのか、と問い詰めた。

 笹川は、「占領軍を馬鹿にしたのではなく、占領軍全体の名誉を守るためにソ連の不正と戦わねばならぬと信じて入所したのだ」と答えた。「なぜ我々がソ連と戦わねばならないのか」と反問する検事に、笹川はとうとうと述べ立てた。

 「私はアメリカに対して、軽侮の念を抱くものではない。よく戦った敵として尊敬をしているが、ソ連に対しては激しい怒りを抱いている。ソ連は日本と不可侵条約(日ソ中立条約)を締結していながら、それを破って満州を侵略した。・・・

 この卑怯極まるソ連が、日本の戦犯を裁くならば、侵略戦争の不正を認めることになり、正義は滅び、占領軍の立場は冒涜されることになるのである・・・

 したがって戦争の勝敗と正義の擁護は別のものである。ソ連は中国大陸にいた日本人を多数捕虜にして本国に行ったし、強制労働に従事させている。こうしたソ連の不正と戦うためには、戦犯として法廷に立つ以外に方法がないために、わたしは生命を賭してここに乗り込んできたのだ。私は生命は欲しいとは思っていないのだ。」

 その証拠はあるのか、と居丈高に問う検事に、郷里に造ったばかりの自分の墓を見よ、と笹川は答えた。この言葉に、検事たちの表情は急に穏やかになり、言葉も丁寧になった。笹川に葉巻を差し出し、火までつけた。相手を真の勇者だと認めれば、素直に敬意をあらわすのが、大方のアメリカ人の美点である。

<六.獄中の闘い>

 笹川の主張は、獄中にあっても、いささかもひるむ所はなかった。今度は、マッカーサー占領軍総司令官とトルーマン大統領に、抗議の書簡を差し出した。

 「貴国は勝者なるが故に、一人も戦争責任を負わず敗者を逮捕・拘禁しているが、その権限はいかなる神から与えられているのか。貴下こそ戦犯ナンバーワンである。その理由は、日本各地の都市を空襲して二百数十万人を爆死させたばかりか、多数の神社・仏閣、病院、民家などを爆破して、甚大なる損害を与えた。

 また呉軍港を除外して、軍事施設の少ない広島に原子爆弾を投下し、一気に十数万の市民を殺傷した。さらに長崎にも原子爆弾を投下して数万人を殺戮している。この戦争法規違反については、勝敗の別なく責任を負うべきである。

 しかるに貴下は、勝者なるがゆえに正義の代弁者のごとく振る舞っている。この東京裁判は、侵略戦争を根絶するのが目的であると強調しておられるか、貴下自身も少し謙虚な気持ちなって戴きたい。

 世界に真の恒久平和を確立し、人類を永遠に戦争の悲劇から解放せんとするならば、世界の軍備を全廃し、さらに移民と貿易の自由を許す以外の方法はない。もし、この案を取り上げて実行してくれるならば、そのご恩に感謝し、この一身を世界平和確立記念祝典の供え物として提供しましょう。」

 この手紙を送った翌日、笹川は担当の米軍中尉から呼び出され、激しい暴行を受けた。体中がアザだらけになり、ついには発熱して、飯も食えない状況になった。さらに、極寒の中で、掃除などの懲罰の使役をさせられた。

 しかし、笹川は懲りずに、今度はソ連のスターリン首相に手紙を送った。「日ソ不可侵条約」を破って満州を侵略し、南樺太と千島列島の略奪をしたソ連を批判し、これらは日本固有の領土であるから、「速やかに返還せよ」と迫った。

 笹川は臆することなく、自分が正義だと信ずる所を主張した。正義と勝敗は関係ない。勝者が不正を働いては、いつまでたっても、真の世界平和は実現しない、というのが、笹川の信念であった。


<七.もし天皇が戦犯者として裁かれたならば>

 東京裁判に判事や検事を送った国のうち、ソ連、中国、オーストラリア、フィリピンは天皇訴追の意向を固めていた。しかし、実際に天皇が裁かれるようなことがあれば、どうなっていたか。マッカーサーの側近、ボーナー・フェラース准将は次のような意見書を提出していた。

 「わが軍の無血進駐(占領)を完成するに際して、わが米軍は天皇の助力を要求した。彼の命令によって七百万の日本の兵士は軍旗を横たえ、速やかに武装解除した。天皇の命令によって七百万の米兵の負傷を除かれ、戦争は予定前に終結した。

 天皇を利用しながら、彼を戦犯として戦争裁判にかけるがごときことがあれば、日本国民に対する背信行為である。さらに天皇を含めた日本国民は、国体の保存を明言したるポツダム宣言を含む無条件降伏を受諾した。

 もし天皇が戦犯者として裁かれたならば、日本政府の組織は瓦解し、かつ一般暴動は当然に蜂起するであろう、これによって日本国民が暴動を起こすことは明らかである。仮に武装せずとも流血の惨事は必然なり。多数の占領軍と数千の官僚を要すべく、その結果、日本国民の感情は悪化するだろう。」

 日本政府が瓦解し、米軍が直接軍政をしいて、各地で日本国民との衝突があれば、対米感情は決定的に悪化し、活発化していた日本共産党の動きとあいまって、日本人を親ソ路線に追いやるかもしれない。これが笹川のもっとも心配した点であった。

 マッカーサー自身も天皇との会談で、「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも責任をとります。」という御発言に感銘を受けたこともあって、なんとか天皇訴追を避けたいと考えていた。

 しかし、裁判の過程で、日本政府の高官達が助かりたい一心で、天皇に責任を押しつけるような発言があっては、マッカーサーと言えども、米国国内と連合国の天皇訴追の要求を押さえることはできない。

 開戦直前まで首相だった近衛文麿公爵は、戦犯容疑者に指定されるや、服毒自殺を遂げて、天皇と国民を守る責務を投げ出してしまった。東条英機もピストル自殺を図ったが、幸い一命をとりとめた。フェラースの予言したような最悪の事態を避けるには、東条しかいない。笹川が東条に接近したのはこういう意図からであった。

<八.真実と信ずる所を主張せよ>

 日本の安定と、将来の日米和平のためには、東京裁判で主張すべきは主張して、仮にも天皇に累が及ばないようにしなければならない。それは一に開戦時の首相であった東条英機にかかっている。

 こう考えて、首尾良く巣鴨プリズンに入り込んだ笹川良一は、運動の時間のたびに東条に近づき、この事を説いた。東条が死刑になるのは避けられない。死を覚悟して日本の立場を主張するのが、貴方の名誉であると。そして裁判での主張のしかたを、自らの3年間の獄中での法廷闘争体験から教授した。

 そのポイントは、少しでも刑を軽くしてもらおうと、検事に迎合したウソの供述をしては絶対にいけない、ということであった。裁判が長びこうが、検事の心証を悪くしようが、とにかく自分の真実と信ずる所を語る。裁判とは裁判官や検事と協力して真実を明らかにするプロセスだ、と心得よというのである。

 笹川の度重なるアドバイスに、東条は覚悟を決め、「笹川さん、私はいずれ君の期待に添えると思いますよ」と語った。

<九.東条英機の主張>

 東京裁判の山場、東条の個人弁護の立証は、昭和22年12月26日から、年明けにかけて、8日間にわたって行われた。自分以外の証人は一人も出廷させず、220ページにもわたる口述書を準備して法廷に臨んだ。その英文版の朗読だけで、まる二日を要した。

 「我国にとり無効かつ惨害をもたらした昭和16年12月8日に発生した戦争は、米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因し、我が国としては、自衛戦として回避できなかった戦争であると確信する。・・・

 戦争が国際法上より見て正しい戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何という問題とは、明らかに分別できる二つの異った問題である。

 第一の問題は外国との問題であり、かつ法律的性質を持つ問題である。私は最後まで、この戦争は自衛戦であり、現在承認されている国際法に違反しない戦争であると主張する。・・・

 第二の敗戦の責任については、当時の総理大臣であった私の責任であり、この意味の責任は受諾するだけでなく、衷心より進んでこれを負うことを希望する。」

 この後、キーナン検事による4日間にわたる反対尋問が行われた。キーナンは冒頭で「この口述書の目的は、日本国民にかつての軍国主義をなお宣伝しようとするためのものか」と挑発した。ブルーエット弁護人は直ちに「妥当な質問ではない」と異議を申し立て、裁判長もこれを認めた。東条の堂々たる主張に、キーナンはいきなり出鼻をくじかれた形となった。

 さらに東条は、国政に関することは、内閣及び統帥部の責任で為した最後の決定につき、昭和天皇が拒否権をされることは、憲法上も、慣行上もなかったことを述べ、次のように断言した。

 「故に、1941(昭和16)年12月1日開戦決定の責任も、また内閣閣員及び統帥部の者の責任であって、絶対的に陛下のご責任ではない。」

<十.山は富士山>

 東条は、陳述の終わった直後に、笹川と法廷の控え室で対面した。そして実に晴れ晴れとした顔で笹川に近寄り、その手を両手で固く握りしめた。

 「笹川君、幸い天皇陛下にご迷惑をおかけしないですんだし、証言台では、僕は思う存分に言うべきことを言ったつもりだ。ただ遺憾なのは、遠く歴史をさかのぼり、深く歴史を掘り下げて語ることを許されなかったが、これは僕の責任ではない。

 とにかく僕は、笹川さんが公判廷の経験を、微に入り、細に渡って聞かせてくれたことがうれしい。貴方が最後まで僕を激励してくれたことが、どれほど参考になり、教訓になったことか、僕は衷心から感謝します。まったく貴方の毅然たる態度は、敬服のほかはありません。」

 東条は笹川に深々と頭を垂れた。
 
 翌々日は、昭和23年元日であった。午後の運動時間に二人は運動場でまた顔を合わせた。東条は笹川にお礼として、次の一句を送った。

悠久の姿尊し初の富士

 笹川はこの句の意味が分からず、「私は富士山などとは関係ないんですよ」と言った。東条は答えた。

 「何を言うのかね。日本で一番のものは天皇、山は富士山ではないですか。富士山というのは、笹川さん、あなたのことですよ。」

<十一.天皇不起訴の確定>

 1月8日の夜、マッカーサーは、ウェッブ裁判長、キーナン検事をGHQに招き、東条の証言内容を検討した。東条の開戦責任が明確化されたことで、天皇の不起訴が確定した。

 この年の11月12日、東条をはじめとする7人のA級被告が、死刑の判決を受けた。判決理由書はついに公表されることがなかった。

 12月1日、家族との面会日に、東条は妻にこう言い残した。

 「まず裁判の結果、天皇に大きなご迷惑をおかけせずにすんだことを、感謝していると(国民に)伝えてくれ。また、私は、大和民族の血を信じているから、日本の前途には明るい見通しをもって死んでいくと伝えてくれ。」

 東条ら7人の処刑は、皇太子殿下(今上陛下)ご生誕の12月23日に行われた。

<十二.巣鴨人生大学>

 笹川は、他の容疑者たちの面倒もよく見た。沈み込んでいる容疑者たちに対して、「いつ出られるか」などとくよくよせずに、刑務所生活を大いに楽しむべきだと教えた。

 たとえば、高橋三吉海軍大将は、好きな絵を描く気にもならず、「自分はこんな所に来る訳はない」「共産党の投書で入ったのだろう」などと、うつうつとしていた。そこへ笹川が声をかけた。

 「高橋さんも来ましたね。貴君は近い内に出るでしょう。私は3年居ることに定めました。」

 驚いて、理由を聞くと、

 「私は前に大阪刑務所に三年いました。出所後京都の禅寺、天竜寺の関精拙和尚と一日飲みながら、天竜寺の修行生活と刑務所の生活とを互いに話し合いながら、私の結論は、大阪刑務所の一年は、天竜寺の十年の修養に当たると思いました。今度は、縁あって巣鴨に来たので、私はもう三年是非居たいのです。刑務所は私は人生大学と呼んでいます。」

「この笹川君の述懐は私には頂門の一針(=急所を押さえた戒め)であった。笹川流にどっかり腰を据えるに限ると決心し、爾後大いに所内が明るいように感じた。私は笹川君を巣鴨の恩人と考えている。」

 笹川はBC級戦犯容疑者(捕虜虐待などの通常戦争犯罪容疑者)に対して特に親切で、彼らから深く慕われていた。笹川が巣鴨で記した「獄中忘備録」には、短歌や漢詩にまじって猥談の筋書きまであった。自分で筋を考え、身振り手振りを交えて話してやるのである。笹川の周囲には、常に笑いが絶えなかった。


<十三.お灸は「火あぶりの刑」?>

 また若いBC級戦犯容疑者たちには、こう励ました。「君等、有罪となれば予は獄中よりいかなる方法でも講じてやる。君等を一刻も早く青天白日の身として帰省せしめる、一家楽しく生産増強のため、働くことを祈る。予が出所しても生産増強には直接ならぬから急がぬ。」

 約5千名のBC級容疑者の中には、占領軍の誤解で拘束されているものも少なくなかった。たとえば、戦時中、日本軍は食料に困窮したため、捕虜も栄養失調で脚気にかかるものが大勢いた。

 薬もないために、日本軍兵士が、灸をすえて治療してやったのだが、これを「火あぶりの刑で虐待した」と誤解され、訴えられたのである。そういう容疑者が数十人いた。

 この事を耳にした笹川は、巣鴨プリズン所長のハーディ大佐に面会を求め、「捕虜の病気を治すために、灸をして罪になるというのならば、病気を治す医者は罪人になるのか、あなたの国では医者は罪人ですか?」と論理的な抗議をし、さらに自ら灸の効用を証明してやろうとした。

 早速、灸をとりよせ、野菜不足のために、手に炎症ができていたのを治して見せようと、背中に大きな藻草を燃やした。周囲のB級容疑者たちは、「そんな大きな藻草を使うと、血管が破れて命がありませんよ」と心配したが、「私一人の命で、何十人、何百人も救えるのだから結構なことだ。自分の墓まで作ってあるのだから心配するな」と大見得を切った。

 一ヶ月もすると手の炎症は治ってしまった。これを米軍の軍医に見せると、自分が与えた薬では治らなかった炎症が、灸できれいに消えてしまったので、驚いて「早速、検事に説明してください。私が証人になります」と言った。

 これには検事も同様に驚かされて、「火あぶりによる捕虜虐待」容疑で捕らえられていた数十名を即座に釈放した。論理的、実証的に真実を明らかにしようという笹川のアプローチは、良心的なアメリカ人にはよく通じたのである。

<十四.受刑者からの数千通の礼状>

 東条ら7人の処刑の翌日、昭和23年12月24日、笹川を含む数人のA級未決組が釈放された。当初の予定通り、3年余りの拘留であった。しかし、BC級はまだ大勢、獄につながれている。

 この日から、笹川はBC級の慰問、減刑・釈放請求、家族の支援に打ち込む。77歳の老母、夫人、兄弟、子分まで総動員で、運動を展開した。まだ、そのような運動をする者は反米運動家と睨まれ、再び巣鴨に送られる恐れさえあった頃だが、それに怯むような笹川ではなかった。

 笹川は、新聞、ラジオ、蓄音機、レコードなどを大量に差し入れ、慰めと励ましの手紙をしきりに送り、巣鴨プリズンを自ら訪問し、夫人は詩吟や琵琶の演奏を披露した。受刑者の留守家族には、巣鴨への旅費だけでなく、生活費まで援助した。支援は巣鴨よりもさらに劣悪な条件にあったフィリピンのモンテンルパ収容所にも及んだ。笹川への受刑者からの礼状が、数千通も残っている。

 今回特に詩吟や琵琶、私、常々聞き度いなと望んでいた慰問演芸であったので、其の熱誠溢れた出演を、今度という今度は、心ゆく計満喫いたしました。一同の悦びも大変でした。(落合甚九郎)

 令夫人ノ朗吟サレタ和歌一首、聞イテ居ル中ニ、止メ度モナク流ル涙ヲ、如何トモスル事ガデキマセンデシタ。(星野直樹)

 彼等(嘗ての指導階級であったA、B級で出所した人々)の殆ど全部が、唯自己の保身のみに終始し、嘗ての節を屈している時、殊更に、先生への尊敬が、私をしてぐっと身近なものに覚えさせます。(林義則)

<十五.皆が出所するまでは、私の葬式は出してはなりません>

 昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約が成立し、日本は独立を回復した。しかし、その条文には東京裁判の判決を受け入れ、連合国の同意なしに減刑や赦免はできない、という一項があった。

 笹川は、国会議員、全国の知事、市町村長に赦免の訴えを行った。これによって、戦犯釈放運動は盛り上がり、昭和30年までの約3年間で、衆議院で6回、参議院で3回、戦犯釈放に関連した決議が採択された。

 昭和33年1月18日、笹川の母テルが82歳で亡くなった。笹川とともに、戦犯支援に打ち込んできたテルは、「巣鴨から皆が出所するまでは、私の葬式は出してはなりません。」と遺言を残して逝った。

 笹川は、巣鴨で同僚だった岸信介首相などへの協力を求めて奔走し、ついにこの年の5月31日に最後の18人が出所した。6月17日にようやく母の葬儀を執り行った。A級戦犯として処刑された東条英機大将や木村兵太郎大将の未亡人らが、手伝いに参じた。

 巣鴨を出てから、10年近くに及ぶ戦犯支援・救出活動の間、笹川は、好きな酒、煙草を断っていた。最後に出所した18人を自宅に招いて、笹川はようやくビールをいかにもうまそうに飲み干したという。

(完)




笹川良一さんの、佐川急便からの記念の特注品の腕時計を、個人的に所有していましたので、調べているうちに感動する記事がありましたので

掲載させていただきました。戦後の東洋医学に対する偏見や誤解を解いたのがこの記事でも解かったのですね!




Posted by SGI健康塾・片山 at 01:39│Comments(0)
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